大人のための子どもの本の読書会

向島こひつじ書房が主宰する読書会ブログ

第13回読書会報告『メアリー・ポピンズ』って何者?

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メアリー・ポピンズ・シリーズは、子どものころから何度も読み返してきました。次代に読み継いでいきたい一冊だと思っていましたが、最近の図書館では「動かない本」になっているそうです。時々学びに参加している読書活動アニマシオンの基本図書リストにも入っています。ところが、アニマシオンでは、これまで一度も貸し出しリクエストがないそうです。読ませたい、でも、読まない。溢れる情報の中では見い出されにくく、ひっそりと埋まっている本のひとつかもしれません。ロングセラーだとは言え、実際にはどんな人たちが読んでいるのだろう? 読み手の方々と実際に出会えるのが、読書会の楽しみのひとつです。

ふたを開けてみれば、ブログとツイッターに募集告知をしたとたんに、申し込みが相次ぎました。メアリー・ポピンズはまだまだだいじょうぶ。ほっとしたこひつじでした。さて、お話をうかがってみれば、子どものころからの愛読書派と、これを機会に挑戦派の二手に分かれました。宮沢賢治に続いて学生さんの参加がありました。東京では若い世代を中心に読書会がブームらしいのですが、このささやかな読書会でも回を重ねるごとに手応えを感じています。読書会を始めた2年前には、「お金を出して本の感想を言い合って何が楽しいの?」とまで言われたものですが、ネットでのやりとりが加速すればするほど、顔と顔を合わせて意見を言う場への渇望が増すのかもしれませんね。初対面同士でもそれぞれのペースで楽しんでくださる様子で、都会のサードプレイスとしてよい雰囲気に育ちつつあります。

さて、話を戻します。ディズニー映画の影響は少ないのか、映画からメアリーに入った方はただおひとりだけ。クマのプーさんと違い、愛らしい存在ではないですものね。著者トラヴァースにとって、原作の映画化は苦々しい体験だったらしく、作品の出来に後々まで不満を抱いていたようです。映画でメアリー役を務めたジュリー・アンドリューズは、原作に比べると愛想が良く、そのつもりで原作を読むと違和感があるかもしれません。メアリーを今風に言えば、ツンデレでしょうか。自信過剰でうぬぼれが強く、自分の姿をウインドウに映してはうっとり。常にふんと鼻をならし、ちょっとしたことで気を悪くするので、雇い主も子どもたちも気を遣いながらしゃべらなくてはなりません。それに対して、恋人のバートにはでれでれしてしまう。こんな風に書くとあんまりですが、こひつじはこのクールな感じが子どものころから好きでした。もう少しでユーモアが出てきそうな、あるいは、思いやりのある表情を出しそうでやっぱり出さないあたりが心憎い。子ども時代にそう感じたことを覚えています。つんけんしながらも、子どもたちを自分の休みに不思議世界へ連れていってくれたり、危機一髪のところで助けてくれる。やはり頼もしい存在。キング・コブラが母方のいとことは。面白過ぎます。いずれにしても、メアリーというキャラクターを好きになれるかどうかがこの物語に入り込めるポイントのひとつだと思います。子どものころは好きだったばすなのに、メアリーの高慢さが気になって、昔のように入りきれなかったという意見もありました。

メアリーの仕事ぶりを見ると、「子どもを甘やかさず、べたっとしない関わり方に、プロの品格を感じる。メアリーは著者を投影しているのかもしれない」という意見にまとまりました。人生経験を積んだ女性がひとり、腕を頼りに仕事に生きる。そう考えると、メアリーの態度にも合点がいきます。子どもたちとの距離の取り方は、冷たいわけではなく、いずれ教育の役割を終えて去っていく当時のナニーとしては、ごく当たり前だったとも言えそうです。挿絵画家は、クマのプーさんの挿絵を描いたアーネスト・H・シェパードの娘、メアリー・シェパード。著者と画家というプロフェッショナルな女性2人で、何度も話し合いを重ね、メアリー・ポピンズの容姿が生み出されたという逸話が残っています。働く女性としてのメアリーの立場を考えてみるというのは、大人読みならではかもしれません。

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メアリーはナニーだと書きましたが、19世紀初期に活躍したガヴァネスではないかという意見もありました。階級制度の厳格だった19世紀初期のイギリスでは、働く女性は低く見られていました。当時のナニーは低い階級がする仕事でした。しかし、ガヴァネスの身分は雇い主と同じように高く、経済的理由で仕事を必要とする教養ある女性たちを差して呼んだようです。つまり、雇いの家庭教師といったところでしょうか。例えば『ジェーン・エア』だとか。メアリーのプライドの高さはガヴァネスという背景からくるのかもしれません。右はこひつじが探してきた本、左は参加者のぐりのりさんが紹介してくれました。これらの本を読むと、現代のイギリスは、目に見えるところでは階級制度は薄れ、ガヴァネスという存在自体が古き良き時代の思い出となっているようです。

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メアリー・ポピンズといえば、岩波書店のひとり勝ちの様子。持ち寄った書籍の多くは左側の岩波少年文庫でした。でも、よくよく見ると、あれ? メアリー・ポピンズの向きが逆さま! もしやこれは、風にのって来たときと、帰るときの違いかもしれない。左はかばんに柄がないけれど、右はちゃんと絨毯柄になっている! みんなでわいわいと、読書会ならではの小さな発見でした。

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『風にのってきたメアリー・ポピンズ』は、1962年、1972年、1981年の改訂で、差別表現だと非難された箇所が訂正されています。例えば、「the negro lady」は「a dark lady」に変わっています。これは、20世紀後半、『ちびくろ・さんぼ』を発端とする人種差別問題によるところが大きいようです。1981年と言えば、著者のトラヴァースが82歳のときです。「わるい火曜日」に登場するエスキモー、黒人、中国人、インディアンを、北極クマ、金剛インコ、パンダ、イルカという動物に訂正しています。持ち寄った本はすべて人間のままなので、気になって調べたところ、日本語版は改訂を加えていないようです。版元の強い意志なのか、著者との契約なのか、あるいは費用の問題なのか。理由は版元に聞いてみないとわかりませんね。動物版は挿絵も変更されているのか、これまた気になるところです。原書を探してみなくては。

それにしても、著者の情報が少ないので、不思議に思っていたところ、森恵子さんという英語圏の児童書の研究者が執筆されたトラヴァースの評伝を読んで合点がいきました。どうやら、筋金入りの自伝嫌いだったようです。

この評伝の「はじめに」には、トラヴァースの次のような言葉が紹介されています。

「わたしの自伝的事実をさがしていらっしゃるのなら、『メアリー・ポピンズ』がわたしの人生です」。やっぱり!  

メアリー・ポピンズの死後、生誕100年の1999年に、ヴァレリー・ローソンが丹念に写真や日記などの遺品を調べて著した『空から彼女はやってきた』で、トラヴァースの人物像がかなり明らかになったと書かれています。森恵子さんの書かれた評伝は、墨田区の図書館に蔵書がなく、カーリルで検索して取り寄せてもらいました。メアリー・ポピンズや著者について知りたいことはほぼ網羅されています。作品研究の入門書としておすすめです。

メアリー・ポピンズと言えば、イギリス児童文学の範疇です。ところが、著者のトラヴァースはオーストラリアのクイーンズランド州生まれです。父親はロンドン生まれながら、アイルランドに深く傾倒し、ケルトの神話や伝説、イェイツの戯曲などの信奉者でした。娘であるトラヴァースの関心に、このことは大きな影響を与えているようです。8歳で父親を亡くし、家族を養うためにタイピストとして働かざるをえなかったものの、結局、高校時代に打ち込んだ舞台女優の道を歩み始めます。文才を認められて、地元の新聞でコラムを担当したり、詩を発表します。25歳でイギリスに移住し、ジョージ・ラッセルやイェイツとの交流が始まります。年の差のあるジョージ・ラッセルは、文学の師であり、生涯の恋人だったようです。35歳のとき、『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を出版します。この年は、恋人のジョージ・ラッセルが亡くなった年でもありました。彼女は96歳で亡くなるまで、結婚はせず、養子をとって育てました。トラヴァースがさも嫌いそうな、簡単な自伝のアウトラインを紹介しましたが、これだけでも、メアリー・ポピンズが私の人生だと言った意味が、少しだけわかるように思います。強靭な意志を持つ女性。かなり手強そうです。

それにしても、メアリー・ボピンズとは何者でしょうか? 読書会では、「妖精」「魔女」という二つの意見が出ました。この評伝を読むと、トラヴァースは神話や妖精物語(昔話)というすでにあるものを「結びつける」ことを人生を通して行ってきたことがわかります。ジョナサン・スコットのインタビューではこんな言葉を残しています。「わたしは神話と詩の家のお手伝いにすぎない」。

その昔、日本における児童文学研究の世界では、メアリー・ポピンズのシリーズなど、単なるでたらめな話に過ぎないという捉え方をされていたそうです。しかし、今では研究が進み、伝承文学の土台の上に建つ、深い物語だという見方が主流になっているようです。たとえば、全体の構成をとらえてみたり、執筆年代をふまえてみたりすると、物語の奥にあるメッセージが浮かび上がってくる。こんな読み方を少しだけ読書会でも紹介してみました。

読書会の準備を通して、今回もたくさんの発見がありました。メアリーが生まれたのが著者35歳。82歳で『さくら通りのメアリー・ポピンズ』を、83歳で『メアリー・ポピンズとおとなりさん』を新たに出版し、1996年、96歳で亡くなっています。大好きなメアリー・ポピンズのシリーズに、まだ2冊も未読の作品があったとは、嬉しい驚きです。ただし、メアリーのシリーズは続けて読むと、同じパターンに少々飽きがきましたので、ぽちぽちと進めてみるのがよさそうです。これも、昔の物語の特徴かもしれません。今はジェットコースターのように次々と展開し、ストーリーを読ませることに主眼が置かれがちです。けれども、メアリーの物語は、日常風景から始まって、曲がり角ひとつ曲がるといつの間にか不思議世界に入り、ひとしきり楽しむと、また当たり前の世界に戻っているというパターンです。入って出て行く。読書体験が少ないと、この作業についていくのが難しいかもしれません。また、せりふや、表情、小物など、細部を読む楽しさも特徴ですので、これまた忙しない心では向き合えません。メアリーと出会うには、心を「ここ」に置くことが試されそうです。「ここ」に置いて初めて、目に見えなかった世界が見えてくる。みなさんには見えるでしょうか?

長々と書いてきましたが、こひつじが印象に残ったのは、メアリーの世界は、生きることの肯定感に支えられた世界であるところです。満月の夜、動物園の動物たちが、メアリーの誕生日を祝うために集まってきます。そこで、キング・コブラが、子どもたちにこんなことを言います。

「わたしくどもは、すべて、おなじものでつくられているのです。いいですか、わたしくしたちは、ジャングルで、あなたがたは、町で、できていてもですよ。おなじ物質が、わたくしどもを、つくりあげているのですーー頭の上の木も、足のしたの石も、とりも、けものも、星もわたくしたちは、みんな、かわらないのです。すべて、おなじところにむかって、動いているのです。お子さんよ、わたくしたちのことを忘れてしまうことがあっても、このことだけは、覚えていてください。」

 

前回の宮沢賢治も、似たようなことを言っていますが、それは肯定的というよりも、むしろ、みんな同じなのに、でも相手を食べなくては生きていけない人間としての罪悪感のような感覚が強く、その切なさを読みながら重苦しく感じるところがありました。でも、トラヴァースの描く作品には、その暗さがみじんもありません。本来、世界はよいところ、生きることは希望、という土台があるのではないか。とまあ、こひつじの感じたところを書いて終わりにします。

 

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